内山博人(医学博士)
東京女子医科大学歯科口腔外科非常勤講師
東京女子医科大学先端生命医科学研究所元研究員
日本有病者歯科医療学会 認定医
日本口腔インプラント学会 認証医

<略歴>
1998年 東京歯科大学卒業
1998年 東京女子医科大学病院歯科口腔外科勤務
2008年 内山歯科医院勤務
2010年 医学博士学位取得(東京女子医科大学)

<所属学会>
日本歯科医学会
日本口腔外科学会
日本有病者歯科医療学会
日本再生医療学会
日本口腔インプラント学会

<所属団体>
日本歯科医師会
東京都歯科医師会
武蔵野歯科医師会
武蔵野警察歯科医会

ごあいさつ

武蔵野市の歯医者、内山歯科医院の内山 博人です。
当医院は昭和49年に開院し、西荻窪・三鷹台・吉祥寺の三駅が利用出来る事から、現在までおよそ10,000人の患者様の口腔の健康と予防に努め、地域密着型の医療を目指してまいりました。
自分の歯でおいしく食事をすることが、生涯にわたって健康を維持することの原点と考えております。
近年、歯周病をはじめとする歯科疾患や口腔内細菌が、糖尿病や動脈硬化、肺炎、早産といった様々な全身疾患と関連があることが明らかになってきました。お口の中の健康を保つことでこれらのリスクを軽減し、皆様の健康に寄与することで歯科医療を通じた社会貢献をしたいと考えております。

内山 博人 をより知って頂くために

とにかく小さかった幼少期

東京都武蔵野市吉祥寺南町出身、歯科医の父の長男として生まれる。
幼少期から体が小さく、幼稚園、小学校、中学に至るまで、背の順は常に一番前でした。運動会や体育の授業で「前にならえ」をする時は、一番先頭で両手を腰にあてるポーズしかとったことがなく、小学校時代は4歳離れた弟と一緒に同じ服を着て並んで歩いていると、双子に間違われることもあるほどでした。
中学に入学後は制服を着て歩いていると、すれ違う人が皆びっくりして「え?あんな小さな子が中学生……?」と、振り返ってこちらを見るほどでした。

(後列右から4番目。一際小さい体が目立った幼稚園時代)


体が小さかったコンプレックスから幼稚園から小学校(武蔵野市立第三小学校)低学年までは内気な少年で、クラスでもあまり目立たずひっそりと過ごしていました。そんな私を見て不安に思ったのか、母親が最初に通わせた習い事が体操教室でした。吉祥寺北町にあった体操教室は名前は確か「さゆり会」。割と厳しい体操教室で、年に一回は大きな講堂を貸し切って発表会があり生徒個人や団体で、習った技のお披露目会が必ずありました。そこで初めて体を動かすことの楽しさ、体が小さくても10段の跳び箱を飛べるようになったことなど、幼いながら少しずつ自信になり、除々に明るい性格に。結局背は大きくなりませんでしたが、コンプレックスはいつの間にか消えてゆきました。

バンド三昧の少年期(中学〜高校)

中学受験では第一志望の学校には不合格となりましたが、中高一貫の私立中学に通うことになりました。比較的自由な校風の学校で校則も特に厳しいわけでもなく、かといって緩すぎもせず自分にはちょうど良い学校であったと今でも思います。

私が中学3年から高校にかけて、世の中に「バンドブーム」というのが到来します、「イカす、バンド天国」通称イカ天や、「天才たけしの元気が出るテレビ」などのテレビ番組が大ヒットする中で、様々なアマチュアバンドが脚光を浴びるようになる中、私もその流れに飲まれることになり、当時ベースとドラムをやっていた学友から「ギターをやってくれ、そしてバンド組もう」と声をかけられ、中学3年から高校2年までの間はひたすらギターばかり触っていました。
吉祥寺は今でもそうですが、当時から音楽用の貸しスタジオが多く、料金が安くなる夜中に文化祭前などはよく借りて、我が家でよく合宿などしていました。

(一番手前の陰鬱な酷い髪型のギタリスト)



そんな緩みきったお気楽な中高生活を送っていましたが、いやでも大学受験はやってきます。歯科医の長男として生まれた私は、幼少期から歯科医院を継ぐものと刷り込まれてきたため、それがいいか悪いかは別にして、特に何も考えずに歯科大に行くことを当たり前の進路としていました。高校2年の途中から本格的な受験勉強が始まるわけですが、一番つらかったのは勉強そのものではなく、進路が違う友人達との距離間でした。
私が通っていた中高一貫校は大学も併設されており、300人いた学年で100人は付属の大学に進学しました。まったく受験勉強をせずに高校3年間そのまま遊び続けられる友人もたくさんいるわけで(私の仲よかった友人達はほとんどが大学へ内部進学)、学校帰りに予備校に通う私を横目に、友人達は皆、雀荘などに繰り出し、楽しげに麻雀などを打っているわけです。何度も誘惑に負けそうになりましたが、幸いグループ内に薬学部を目指す友人が一人だけおり、彼に引っ張られる形でなんとか道を外さず踏みとどまり、東京歯科大学に現役合格することができました。

人生を変えるラグビーとの出会い
(東京歯科大学〜東京女子医科大学歯科口腔外科)

大学に入ると、一般大学ではサークルなどの活動がありますが、医科大や歯科大にはサークルなるものはあまり存在せず、結構ガチないわゆる部活があります。医療系の大学なのに?と思われるかもしれませんが、体育会と文化会とはっきり別れており、私は最後の学生生活なので、学生のうちにしか出来ない事、何か団体スポーツをやろうと入学前から心に決めていました。
特に何のスポーツをやるかは決めてませんでしたが、これも運命だったのでしょう。入学2日目に一番最初に私に体験入部の声をかけてきた先輩がラグビー部の方でした。ラグビーは15人でやる競技で、様々な体型に適材適所がある主に7つのポジションに分かれているスポーツですが、私のような小柄な体型でも可能な競技というのが魅力的で、そのまますんなりと入部を決めてしまいました。ギター少年からラガーマンへと大きな変貌を遂げたわけです。この競技との出会いが後の私の人格形成や人間関係にとても大きな、切っても切れない大切な縁を紡いでいくことになりました。
ルールもわからないド素人がラグビーをいきなり大学から始めたわけですが、幼少期に習っていた体操教室がここでも役にたち、小柄なりに運動神経はよかった?のか比較的早く上達し、大学2年からは公式戦に出場できるレギュラーメンバーにも選ばれるようになりました。3年生になると、少し調子にのっていたのでしょうか、練習試合中に相手にタックルされて頭を強く打ち、強度の脳震盪を起こし、後に自分が研修医として働くことになる東京女子医科大学の脳神経外科の救急外来に搬送されました。幸いCT等で異常なないものの受傷前後の3日ほど記憶が今でもまったくなく、2週間の安静と練習禁止を医師から言い渡されました。
2週間練習に参加できずにいる間にチームは公式戦の開幕を迎えようとしていました。(関東医歯薬ラグビーリーグという医学部、歯学部、薬学部だけのラグビーリーグがあり25チームほどが所属、1部から5部までの階級制の総当りリーグ戦で、上位下位の2チームは入れ替え戦に望む本格的な競技団体でした)脳震盪から復帰した私は当然レギュラー復活、と思っていましたが、私のポジションには一学年下の後輩が後釜にすわり、私の居場所はなくなっていました。高校までスポーツらしいスポーツをやってこなかった私にとってこれは結構ショッキングな挫折で、今でも当時の練習中に、控えチーム行きを指示されたあの場面を思い出すと胸が痛みます。後釜に座った後輩の活躍もあり、その後私の出番はないままでしたが、腐るのだけはカッコ悪いと思い、練習だけは一生懸命真面目に取り組みましたが、悪いサイクルは重なるもの。必死にもがいた練習中に今度は指を骨折してしまい、そのシーズンは1試合しか公式選に出場できずにシーズンが終わりました。

ラグビー部主将時代(中央)


4年生は主将が選ばれる幹部学年ですが(5年生6年生も引退せずにチームに残り、練習や試合にも出場しますが)前年度怪我でほぼ何も出来なかった私が前幹部学年からなぜか主将に指名されました。うれいし気持ちより戸惑いの方が大きかったですが、選んでいただいた方々の気持ちに応えるために、何より前年度の自分のような立ち位置の部員にも声をかけられるようなキャプテン像を目指して、チームを率いました。
結果はリーグ優勝できたものの、上位リーグとの入れ替え戦で僅差で敗北し涙を飲む結果となりました。調子に乗っていいた1、2年生時代、挫折した3年生時代、返り咲いた4年生時代、しかし最後の結果がついてこなかった経験。この時期の色々な先輩や後輩と接する中で、対話すること、相手の気持ちを察すること、フォローすることは今、歯科医となって医院のチームスタッフや患者さんと接する医療の現場において、必要な多くの学びを得ることができた経験でした。


(後列一番左。常に傷だらけでした)



ここまで書くとラグビーの話ばかりで肝心の歯科医療の勉強はどうしてたの?となりそうですが、平日は9時から16時まではびっしりと授業があり、授業が終わるとラグビー部の練習(練習は火木土日)5年生6年生になると午前午後と病院実習にでて、終わるとテストが繰り返され、そこから練習に顔をだし、帰宅後はそのまま倒れこむように寝る。部活のない日はひたすら勉強という生活をし、大学6年生の12月までラグビー部の公式戦に出場し、3月の国家試験に望み無事合格し、晴れて歯科医師になれたわけです。
ラグビーと勉強にただひたすら没頭した、充実した学生生活6年間でした。大学卒業後は東京女子医科大学歯科口腔外科を選び入局しました。

東京女子医科大学歯科口腔外科〜現在

東京女子医科大学口腔外科を選んだ一番の理由は、歯科大学ではあまり経験を積むことのできない、全身疾患をもった患者さんの歯科治療や、医科との連携、歯科的な救急処置に対応できる医療スキルを身につけるためでした。

(当直中、救急搬送された口腔内損傷患者の緊急手術)


女子医大は新宿という立地にある病院のため場所柄、当直しているとケンカや泥酔して転倒による口腔内損傷などの症例が多く、傷を縫ったあと、失ったり損傷した歯の修復処置や入れ歯の治療等、一人の患者さんと長期間向き合うトータル口腔内治療を数多く行ってきました。その中には虫歯だらけの人、歯周病に罹患している人、全身疾患から一般歯科医院で対応できずに紹介されて来られる方など、様々なトータルスキルを必要とする医療現場に身を置いてきました。

(スペインにおける国際口腔外科学会での学会発表)



10年間東京女子医科大学病院で研鑚し、2007年から先代である父のあとを継承し内山歯科医院に戻ってまいりました。これらの経験を地域医療に少しでも還元し、目の前の患者様のお困りの症状に対応できるよう、日々これからも精進したいと考えております。

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